会員便り

ピースボート南半球世界一周の船旅の覚書
(2013年11月22日〜2014年3月6日)

平成27年5月
                        山中 昇

 

始めに

 1976年4月1日に松下電送機器株式会社に入社し、2008年5月30日にPCCを退職した山中です。
32年間お世話になりましたが、2008年7月1日から、別の会社で働きながら、自宅で個人事業主として働いております。

 2013年11月22日から2014年3月6日にかけて、105日間、南半球世界1周の旅をしてきました。
そのときの感想をまとめた資料があります。

 第1章から第7章までありますので、毎回1章ずつ、計7回で紹介したいと思います。人生観が変わるほどの貴重な経験でした。 皆さんもチャレンジなさってはいかがでしょうか

 

第1章<乗船について>はこちら

第2章<船内生活>はこちら

第3章<船内は社会の縮図>はこちら

第4章<多彩で多様な船内人間模様>はこちら

第5章<旅の景色>はこちら

第6章<寄港地点描>はこちら

  第7章 <ヨーロッパ人による植民地政策の爪あと>
 

罪深いキリスト教
インカの首都であったクスコに象徴されるが、カトリック教会は、インカの神殿をぶちこわした礎石の上に立てられている
自分たち以外の文化を野蛮なものとみなして破壊しつくし、自然崇拝を排除して住民を「教化」し、自分たちが信じる神を押し付け、その教義である「選民思想」に基づく先住民への差別と迫害を繰り返してきた

 このすさまじいまでの破壊と収奪、殺戮を見ると、キリスト教を禁じ、鎖国政策を採った先人たちは賢い選択をしたのではないかと思えてくる

  乱暴に言えば、宣教師がまずやってきて、善人そうな顔をしてキリスト教を広め、次に軍艦がやってきて武力で恫喝し、占領後は、過酷な植民地政策による伝統文化の徹底的な破壊と金品の略奪が組織的に行われるというのが近代史。南米の地の至る所にその爪あとが残っている

  スラム街 すさまじいばかりの貧困に溢れている
 

武力
 観光ガイドの説明では、スペインがインカを滅ぼしたのは1533年のことだ。ピサロが率いた「ごろつき集団」はわずか1500人。その彼らに、インカは手も無くやられてしまうのだ。インカの内紛、スペイン人を見たときに、インカが伝説で待ち望んでいた神と間違えたとか諸説あるが、説得力に欠ける

 では、当時の日本はどうだったろうか?日本では、12世紀中ごろから武士(軍人)が台頭し、鎌倉「幕府」と呼ばれる軍事政権ができたのが1192年。その後は武士(軍人)が日本を支配した。応仁の乱が京都で1467年に始まり、信長を経て秀吉が統一するまで、戦国時代と呼ばれる過酷な内戦の時代が100年以上続く。江戸幕府ができたのは1603年だから、応仁の乱から136年かかっている

 この間、火縄銃(種子島)が伝わったのが1543年だが、砂鉄を使ったタタラの製鉄技術と、刀鍛冶の伝統があったために、わずか30年後には、火縄銃の大量生産体制ができ、日本は世界でも有数の近代的な火力を装備した一大陸軍国であったらしい。 因みに、関が原の戦いでは鉄砲が数万丁も使われたという(司馬遼太郎の作品)

  スペイン人のフランシスコ・ザビエルがカトリックの教えをもたらしたのは1549年だ。ピサロがペルーで侵略を開始したのが1532年だから17年後だ。

 この状況を考えると、スペインの略奪者たちがフランシスコ・ザビエルをはじめとするカトリック宣教師達を道案内にして16世紀後半に日本を攻撃したとしても、戦国時代を通じて戦術と武力を鍛えぬいた屈強の武士(軍人)たちによって包囲され、あっと言う間に殲滅されたと思われる。日本側には、かなりの数の火縄銃が揃っていただろうし、インカの兵士のように馬を見たことがなく、けちらされるということもない。日本がスペインやポルトガルから武力で植民地にされるということはありえなかっただろうと思われる。

 因みに、火縄銃を使うためには黒色火薬が必要だ。主原料は硝石だが、日本には無いので全量を輸入せねばならない。信長や秀吉は堺を直轄地とし、硝石の輸入を独占する体制を作ったようだ。代金は石見の銀で払う。当時のスペインやポルトガルの日本地図にはIWAMIという名前が見える

 鎖国政策で日本は平和を享受したが、欧米の近代化から取り残されたと言って、鎖国・キリスト教禁止政策を否定的に見る向きがあるが、南米ですさまじいばかりの略奪・破壊・キリスト教押し付け政策の爪あとを見ると、日本の先人たちの政策が間違っていたとは思えない


 

奴隷貿易と移民労働
 スペイン語圏を良く知る人から聞いた話を紹介する。多分、その分析は正しいと思われる
スペインとポルトガル人は南米で金を採掘したり、コーヒー農園で働かせるために、原住民では足りないので、アフリカから黒人奴隷を大量に連れてきて、奴隷として、家畜同然の扱いで酷使した

 生産量が増えるにつれ、スペインとポルトガルの本国経済も豊になったが、奴隷貿易に直接かかわっていた新興国のイギリスやオランダは、やがて、奴隷貿易をやめる方向で動きだした。人道に反すると言えば聞こえはいいが、本音は、奴隷が入らなくなれば、スペインやポルトガルの植民地経営が回らなくなり、国力が落ちることを狙ったと言うのだ。これは、鋭い指摘だと思う

 アフリカの奴隷が労働力として得られなくなって困ったスペインは、イタリアのジェノバなどの貧しい農民を大量に移民労働させるようになり、一部は土着した
労働条件が過酷なために、大量の移民労働者が帰国し、その埋め合わせとして招かれたのがアジア人、特に日本人だったというわけだ。日本人は、イタリア人のように文句を言わず、過酷な労働に耐え、現地に根付いたという説明だった

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伴侶の膵臓がん闘病記です、国民病と言われるがんの実録ですので、多くの人にとって参考になると思います
 
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