武力
観光ガイドの説明では、スペインがインカを滅ぼしたのは1533年のことだ。ピサロが率いた「ごろつき集団」はわずか1500人。その彼らに、インカは手も無くやられてしまうのだ。インカの内紛、スペイン人を見たときに、インカが伝説で待ち望んでいた神と間違えたとか諸説あるが、説得力に欠ける
では、当時の日本はどうだったろうか?日本では、12世紀中ごろから武士(軍人)が台頭し、鎌倉「幕府」と呼ばれる軍事政権ができたのが1192年。その後は武士(軍人)が日本を支配した。応仁の乱が京都で1467年に始まり、信長を経て秀吉が統一するまで、戦国時代と呼ばれる過酷な内戦の時代が100年以上続く。江戸幕府ができたのは1603年だから、応仁の乱から136年かかっている
この間、火縄銃(種子島)が伝わったのが1543年だが、砂鉄を使ったタタラの製鉄技術と、刀鍛冶の伝統があったために、わずか30年後には、火縄銃の大量生産体制ができ、日本は世界でも有数の近代的な火力を装備した一大陸軍国であったらしい。 因みに、関が原の戦いでは鉄砲が数万丁も使われたという(司馬遼太郎の作品)
スペイン人のフランシスコ・ザビエルがカトリックの教えをもたらしたのは1549年だ。ピサロがペルーで侵略を開始したのが1532年だから17年後だ。
この状況を考えると、スペインの略奪者たちがフランシスコ・ザビエルをはじめとするカトリック宣教師達を道案内にして16世紀後半に日本を攻撃したとしても、戦国時代を通じて戦術と武力を鍛えぬいた屈強の武士(軍人)たちによって包囲され、あっと言う間に殲滅されたと思われる。日本側には、かなりの数の火縄銃が揃っていただろうし、インカの兵士のように馬を見たことがなく、けちらされるということもない。日本がスペインやポルトガルから武力で植民地にされるということはありえなかっただろうと思われる。
因みに、火縄銃を使うためには黒色火薬が必要だ。主原料は硝石だが、日本には無いので全量を輸入せねばならない。信長や秀吉は堺を直轄地とし、硝石の輸入を独占する体制を作ったようだ。代金は石見の銀で払う。当時のスペインやポルトガルの日本地図にはIWAMIという名前が見える
鎖国政策で日本は平和を享受したが、欧米の近代化から取り残されたと言って、鎖国・キリスト教禁止政策を否定的に見る向きがあるが、南米ですさまじいばかりの略奪・破壊・キリスト教押し付け政策の爪あとを見ると、日本の先人たちの政策が間違っていたとは思えない
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