会員便り

ピースボート南半球世界一周の船旅の覚書
(2013年11月22日〜2014年3月6日)

平成27年4月
                        山中 昇

 

始めに

 1976年4月1日に松下電送機器株式会社に入社し、2008年5月30日にPCCを退職した山中です。
32年間お世話になりましたが、2008年7月1日から、別の会社で働きながら、自宅で個人事業主として働いております。

 2013年11月22日から2014年3月6日にかけて、105日間、南半球世界1周の旅をしてきました。
そのときの感想をまとめた資料があります。

 第1章から第7章までありますので、毎回1章ずつ、計7回で紹介したいと思います。人生観が変わるほどの貴重な経験でした。 皆さんもチャレンジなさってはいかがでしょうか

 

第1章<乗船について>はこちら

第2章<船内生活>はこちら

第3章<船内は社会の縮図>はこちら

第4章<多彩で多様な船内人間模様>はこちら

第5章<旅の景色>はこちら

  第6章 <寄港地点描>
 

アモイ点描
 遣唐使の頃から知られた名前だが、アモイと言うのは福建語だそうだ
アモイの自動車には「門がまえの中に虫」と書いて「ビンと読む漢字がある。その地域は、昔、そう呼ばれていたそうだ
観音さんで有名なお寺があるが、日本のお寺とは趣がかなり異なる

 海岸沿いには高層ビルが立ち並び、高級マンションや豪華なヨットハーバーもあり、富裕層の存在をうかがわせる
街の繁華街は活気があり、食堂では、やはり中国だと感じさせるものがある
上海などと同様に、モノが豊富でバラエティーに富む

シンガポール点描
 どこに行っても若い人が多いのに驚く。街並みは近代的で、きれいで、衛生的。欧米人が多いのにも驚く。地下鉄の切符のシステムはよく理解できなかった

 オーチャードストリートの店で、紅茶など船内で消費するものを買い込んだ。繁華街は日本の影響が強く、コンビニのセブンイレブンは至る所にある。商品こそ異なるが、展示の仕方など日本とそっくりだ。日本資本のプレゼンスの大きさをうかがわせる

 リトルインディアの中華料理店で、駐在している日本人の友人を誘って、4人で食事した。カニがうまいと聞いていたのでたらふく食って飲んで堪能した。1人5000円だったが、あんなものだろう。ただ、カニを手づかみで食べたあとに使うウエットティシューや食後に頼んだお茶もしっかりチャージしてあったのは新鮮な驚きだった。横浜の中華街とは違うのだ!

モルディブ点描
 モルディブはサンスクリット語で「島々の花輪」を意味するらしい。インド洋に、南北860キロ、東西118キロに亘って広がる26の環礁に散らばる1200もの島が、美しい花輪に見えるのでその名がついたとのことだ。その中の一つの「パラダイスアイランド」という島のリゾートホテルに1泊して海水浴を楽しむツアーに参加した。海はきれいで申し分ない。ホテルはリゾート気分が満喫できる、大規模なつくりだ。食事はバイキング形式だったが、メニューの豊富さは絶賛。

 金持ちの中国人客が多く(日本人の5倍くらい)、ホテル内や海辺の施設では中国語の表示が目立った
首都がある島にも行ったが、歩いても周囲を1時間くらいで歩ける大きさ。人口密度が世界一と言われるだけあって、人でごった返している。住民はインド系が多く、イスラム教徒。農業、漁業、リゾート観光しか産業はないが

 

モーリシャス点描
 四国くらいの大きさの島だ。南海の楽園という雰囲気だが、たまに来てリゾート気分に浸るのはいいが、住みたいとは思わない。それこそ、何も無いのだ。
 寄港地の反対側までバスで行き、小島にボートで渡って、遠浅で海水浴を楽しんだが、海のきれいさは信じがたいほどだ
底がガラスでできている遊覧ボートで、海岸から数百メートル先まで遠浅の水中の景色を楽しんだが、死滅した珊瑚が多く見られた
 大きなウニが大量にあるが、中身はスカスカらしい
乗船者に、モーリシャスの港の工事で5年ほど駐在していたという夫婦が居たが、懐かしそうだった。昔世話になった現地人を訪ねるとのことだった

マダガスカル点描
 世界最貧国の一つだ。寄港地は首都とはいえ、貧しさが目立つ。やたらと暑くてほこりっぽく、住むにはきわめて不適切だ。フランス植民地だったそうだが、宗主国として、ここまで貧困を放置してきた責任は重いと思う。選挙が近いとのことだったが、部族対立や貧富の差に基づくイデオロギー対立などがあって極めて政情不安の状態らしい。街のいたるところで、カラシニコフ(AK47自動小銃)を持った兵士が監視している

 観光バスが着くや否や、みやげ物を売りつけに来る若者や、乞食のような親子が金の無心に来る
北アフリカの光景にも似ているが、フランス植民地であったこの国の貧しさと汚さはどこから来るのだろうか

ダーバン点描(南ア、インド洋側)
 ツアーで自然保護区を訪ねた。川と山へのサファリ旅行だ。ほぼ同じ緯度にある大西洋側のナミビアは砂漠だが、インド洋に面するこちら側は、自然が豊かで、緑も多い。ズールーという原住民の部落への訪問も面白かった

  サファリパーク
 

ケープタウン点描
 緑の多い、美しい街であり、住みやすそうだ。観光ガイドの女性は日本人と結婚し、日本にも20年近く居たとのことであり、ほぼ完璧な日本語を話す人だったので、旅の楽しみが倍増した

 南アは公用語は英語だが、オランダ語の系譜のアフリカーンという独特の言語の影響を受けており、発音がかなりわかりづらい


  ケープタウン 真夏のクリスマス
 

ナミビア点描(2013年12月28日)
 独立前は南西アフリカと呼ばれ、ドイツの植民地だった。街は砂漠の中に突然とってつけたように存在する。今でもドイツ系市民が在住したり旅行者も多いそうだ。そのため、街中にはドイツレストランが多数ある。国の面積のほとんどが砂漠だが、ウラン、ボーキサイト、銅、錫、金、ダイヤモンドなどの天然資源に恵まれている。鳥取砂丘を何千も集めた風景をそうぞうすればいい。荒涼とした風景は映画のロケ地としても使われるそうだ

  英語ツアーだったが、現地ガイドの英語のなまりについていけない乗客が大半だった。ある程度わかる人でも、正確に理解できる人はほとんどいないレベル。英語がまったくわからない人も多数居られ、請われて、車内でボランティア通訳をかって出て、感謝された

  ナミビア砂漠
 

リオデジャネイロ点描(2014年1月7日)
 建設の槌音が高く、活発な港町だ。観光スポットも見事だ。貧民窟もあるが、海岸沿いには立派なマンションやヨットハーバーなどが並び、豊かさを感じさせた。
日本でも有名な「コパカナビーチやイパネマビーチは砂浜こそ真っ白できれいだが、海の色は東京湾より汚れている
港のターミナルが無料の無線LANサービスを提供しており、船内の部屋でも使えた。つなぎっぱなしにしてツアーに出かけ、その間に、ウイルスパターンなどの大容量ファイルをほぼ1か月分まとめてダウンロードすることができたのは幸運だった

ブエノスアイレス点描(2014年1月11日)
 活気のある魅力的な街だ。歴史的な観光スポットも多く、タンゴ発祥の地区は特色があり、面白い場所だった
国際的に有名な名門サッカーチームの拠点になっている地区も巡った。サッカー好きにはこたえられないだろう
昼のレストランの肉料理は正に圧巻だ。串で刺して焼いた様々な種類の肉を目の前で切り分けて皿に載せてくれる。おかわり自由だが、そんなに食べれるものではない

 夜のタンゴショーは「すばらしい」の一言だ。堪能した。ピースボートのツアーが貸切だったが、南米の客と比べて日本人客は静かだと聞いたので、周囲の人たちと示し合わせて大騒ぎして雰囲気を盛り立てた。ショーの前に食事が出たが、これも巨大なチキンの料理。サーブを断わり、ワインだけ飲んだ


アルゼンチン海軍と日本海軍のつながり
 ブエノスアイレス観光したときに日本人通訳がついた。4歳で熊本から家族とアルゼンチンに移住し、61年住んでいる男性だ。案内の中で、日露戦争前のアルゼンチン海軍と日本海軍との不思議な縁について説明があった。説明を聞きながら、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の一説を思い出した。日本海軍はロシアとの戦争に備えて戦艦部隊を強化する必要があり、イギリスから戦艦三笠・敷島などを購入した。不足分はアルゼンチン海軍がイタリアの造船所に発注していた2隻の巡洋戦艦を譲ってもらうような形で調達したのだ。「日進」と「春日」の2隻。

 ガイドの人は知らなかったようだが、バルト海のリバウ軍港から大西洋〜喜望峰〜インド洋を越えて来航したロシアのバルチック艦隊をほとんど全滅させた「日本海海戦」で、若き山本五十六少尉候補(後の連合艦隊司令長官、前線慰問のためにラバウルから飛び立った飛行機がブーゲンビルで米軍戦闘機の待ち伏せ攻撃を受け墜落死)が巡洋戦艦「日進」に乗っており、ロシア・バルチック艦隊の砲弾を浴びたときに指を2本喪失する怪我をしているのだ。

  ブエノスアイレス中心
  モンテビデオ点描(2014年1月12日)
 日曜日だったこともあるが、市中心部は閑散としており、古びた街の雰囲気がポルトガルのリスボンやスペインの港町に似ていると思った
街の北部に向けてつらなるビーチでは、1月18日まで夏休みということもあったのだろうが、多くの人が海水浴をしており、夜の6時を過ぎても混雑していた

 在モンテビデオの日本国全権大使(前サンパウロ総領事)が私の友人であり、夕方5時に船に来て見学する段取りをした。歓迎のメッセージもFAXで送ってもらい、船の掲示板に貼ってもらった。800人くらいの日本人が一度にまとまってウルグアイのモンテビデオに上陸することなど滅多に無いから、大使に寄港の情報を伝え、歓迎してもらったという次第。船内見学のあと、大使公邸で食事しながら懇談した。大使で赴任したのが5月中ごろ、私が乗船を決めたすぐ後だった。寄港地にモンテビデオが含まれており、縁の不思議さに驚いた。日本の味の品物を持参したが、日本食は手に入りにくいので重宝された
  モンテビデオ市内
 

ウシュアイア点描(2014年1月17日)
 オプショナルツアーで近隣を訪ねた。「地球の果て」という名前の小さな鉄道に乗って景色を楽しんだが、日光の戦場ヶ原と変わらない程度であり、たいしたことはない、湖も行ったが、信州などの山間に行けばいくらでもある景色だ。遠くまで来たから感心してみているが、日本の自然のすばらしさに改めて気がついた次第だ
レストランでの昼食時に出た肉料理を堪能した。これぞ肉!

 ウシュアイアの街のスーパーマーケットで買い物をした。肉やハム、チーズなどは日本の半値以下だが、他のものは日本と変わらない。生ハムとチーズを買い込んで船内でワインと一緒に楽しむことにした
タラバガニのようなカニが名物であり、数軒のレストランが船の乗客に占拠されている状態だった。聞くと、大き目の1匹を数名で分け、お酒も入って一人4000〜5000円くらいの出費だそうだ。決して安くはない。カニは甲羅がごつごつとして持ちにくく、甲羅のミソがほとんど無いらしい

 ビーグル水道には、巨大な氷河が海に張りだしている場所がたくさんあり、1日かけて船が遊覧した。クルーがボートを出して氷河のかけらを集め、かち割りにしてウイスキーやカクテル入れてくれるのだが、この場合、500円追加だ!話の種に私も注文したが、高い分だけおいしかったような気持ちになったから不思議なものだ

  ウシュアイア 南米最南端
 

チリ点描(2014年1月24日)
 バルパライソという、首都サンチャゴの外港に寄港し、海岸線に沿って町並みを見学するツアーに参加した。街以外は砂漠だ。山のてっぺんまでぎっしりと家が立ち並び壮観だ。日本なら建築基準法違反になることは間違いない。貧富の差の激しさがいたるところに見られる

 この港は、ゴールドラッシュに沸くアメリカのカリフォルニアに行って一攫千金を夢見る多くのヨーロッパ人を運ぶ船の中継地として栄えた。ところが、1914年にパナマ運河ができてから、寄港する船がそれこそゼロになり、衰退の道を歩み始めた。追い討ちをかけたのが、ドイツが開発した人口硝石である。こうして、チリの主たる輸出品は買い手が無くなり、地元経済の衰退に拍車がかかった

 バルパライソには12の大学があり、35万人の人口の内、10万人が大学生だそうだ。そのため、学生の下宿で生計を立てている人が多いと聞いた

 港近くに巨大なスーパーマーケットがあり 、ワインと、ピスコという酒を買った。300から500円も出せば上等なものが手に入る。ピスコサワーは飲みやすく癖になるが、ワインや日本酒並みのアルコール度があるので、飲み過ぎないように要注意だ

ペルー点描(2014年1月28〜31日)
 首都リマ、クスコ、マチュピチュ、ウルバンバを訪ねた
抜群の天気であり、マチュピチュも、絵葉書通りの景色を堪能した
現地ガイドは日系3世だが日本語はたどたどしさが目立った

 貧しい国だ。バスや鉄道の乗降口に物売りが来て片言の日本語で民芸品を売りつける
ペルーはブラジル、アルゼンチン、チリと比べて物価が3割くらい安い印象だ
貧富の差が激しく、汚さが目立つ国だ
 極端に言えば、500年前にスペイン人によって滅ぼされたインカの頃から進歩しておらず、破壊されたインカの遺跡を見世物にして観光客を集めて食いつないでいる印象がある
それにしても、スペイン人は富を根こそぎ奪い取り、のうのうと本国で贅沢をし、植民地経営は放り出し、社会インフラ建設など何一つやってこなかったと言ってもいいのではなかろうか

 インカの世界観は、天上界、地上、死者の国の3つであり、それぞれ、コンドル、ピューマ、蛇が象徴している。インカの街づくりはそうなっている。コンドルの姿はマチュピチュに代表され、インカの首都であったクスコはピューマの形でできている。蛇が象徴する死の世界の遺跡はまだ見つかっていないそうだ

  マチュピチュ
 

イースター島点描(2014年2月6日)
 人口6000人、小豆島より少し小さく、周囲60キロくらいの島。断崖絶壁となだらかな丘陵、ところどころに遠浅の砂浜がある。ここは、他のどこの島や陸地とも3000キロ以上離れている絶海の孤島。観光以外の産業は無い

 船が横付けできる港湾施設が無いので、船は2キロくらい沖に投錨し、9人乗りの、船外モーター(すべてヤマハ)付の漁船で往復する。穏やかに見えても太平洋のど真ん中なのでさすがに揺れは大きい
海の色が真っ青で、ほかとは大きく違う。「群青」とはこのことだ
雲の動きが激しく、スコールが頻繁だ

 巨大なモアイの像は、海岸付近にあるものは内陸を向いて立っているが、石切り場から近いところに放置してある像は海の方向を向いている。何のために、どのようにして作ったのか、諸説あるが、虚しいとしか表現のしようがない

  モアイ像
  タヒチ点描(2014年2月15日)
 奇怪な山の姿、原生林の熱帯雨林
雨季だからだが、蒸し暑く、直射日光が厳しい。まるで梅雨の最中の日本のようだが、木陰に入ると空気がひんやりとして、涼しく感じる
海は期待していたほどきれいではない

 寄港した島の中では一番近代的できれいだ(フランス領)
街の通りに信号が無いが、通行人を見ると必ず止まってくれる優雅さがある

 街の中心部で、中国人たちによる「春節」のパレードがあった。タヒチで中国人の旧暦の新年の祭りを見るとは夢にも思わなかった。港の近くのロータリーで屋台がたくさん出ているのだが、大半が中国人経営の店だ。商人としての中国人のバイタリティを感じる

15日早朝に寄港し、夜に出航する予定だったが、南極に行った人達の帰りの便が遅れていたために出発が1日延び、翌日の13時に変更された

  出港式に、4グループの乗客が出て、フラダンス、タヒチアンダンスを披露した。中年男性も1人居てほほえましい。プロの集団ではないが、船内で覚えた踊りを上手に舞っていた。集団で組織的に動くことのできる日本人の特性を見る思いだった。北朝鮮のような、お仕着せの、強制されたマスゲームではなく、一人ひとりが自主的に参加するのだが、俄かリーダーの指揮の下、きっちり演技できるのは、やはり、子供の頃からの社会的訓練のおかげだろうと思う
  タヒチ モーレア島
 

ラバウル点描(2014年2月27日)
 行きかう車は大半が4輪駆動のバンや軽トラックだが、例外なく日本車だ。9割くらいがトヨタの商用車だ
通りすがりの人は、例外なく、車に手を振ってくれる。これはここだけの、初めての経験だ

 「戦跡めぐり」のツアーに参加したが、期待を大きく裏切った。見るべきものがほとんどないのだ。戦争博物館の展示の仕方などもお粗末だ

 子供がやたらと多く、人懐こい
観光スポットに行くと、子供たちが集まって「ラバウル小唄」などの日本の軍歌を歌ってくれる。でも、これは日本統治時代の懐かしさを示すものではなく、日本人が観光客としてくるから、喜ばすためにやっていると考えたほうがよさそうだ
 ラバウルの港は大きな湾の奥まったところにあり、深く、水面は湖のように静かだ。乗客の1人が岸壁でシュノーケルとフィンを付けて海にもぐり、雲丹をとって、船内で仲間に振舞っていた
火山活動が盛んで、夜は、船から溶岩の火の粉が噴出している光景が見える

  ラバウルの港
 

番外編(南極、船内で聞いた話)
 当初のツアーが中止になり、結局、4つのグループに分かれて不自由しながらも南極に旅行する羽目になったが、行った人たちの反応は上々だ。多くの人が、アンケートで100点をつけたと言っていた
いずれのツアーでも天候に恵まれ、上陸も最大限に楽しんだとの事。11回上陸した人も居る。ドレーク海峡では、2日くらいはかなりゆれて苦しんだ人が居たが、全体的にはおだやかな航海だったようだ

 一つのグループは、ピースボートに乗ってウシュアイア(南極への基点のアルゼンチン最南端の町)を過ぎてペルーのリマまで北上し、そこで降りて、飛行機でブエノスアイレス→ウシュアイアに戻り、ウシュアイアから南極船で往復。ウシュアイア→ブエノスアイレス→メキシコシティー→ロサンゼルス→タヒチを40時間かけて空路で移動という大変な旅だったが、満足度は高かった

  船内でのレクチャが立派だったそうだ。数カ国から専門家が乗っており、様々な知識を提供してくれたそうだ。クルーズで上陸できるのは、いわゆる「南極半島」だ。ここでは氷が解け、ごつごつした岩肌がむき出しになり、ペンギンなどの動物が生息しているが、氷が解けているのは、「地球温暖化」によるものではないという専門家の講義を聞いたそうだ。南極半島付近には火山があり、マグマが放出されているので海水温が上がり、氷が解けるそうだ。温泉もあるそうだ。また、鯨が絶滅寸前まで捕獲され(95%が居なくなった、主犯はノルウェーの捕鯨船)、鯨が食べていた小魚が繁殖したためにペンギンのえさが増え、そのためにペンギンが繁殖し、ペンギンの排泄物で雪が解け(太陽光のあたり方に影響を与えるらしい)るというのが本当の話だと説明を受けたそうだ。すなわち、南極半島で氷が解けているのは、「地球温暖化」によるものではなく、鯨の大量捕獲による「食物連鎖」によるものという説明だ。因みに、南極中心部では、氷が厚くなっているそうだ

  ピースボートの一つのグループが乗った船は、乗客115人で中国人が68人、日本人20人、残りが雑多な国民だったそうだ。中国人の内3人は専属のコックで、乗客は、中国のエリート、富裕層で、学生も多数乗り、その勉強振りが際立っていたそうだ。皆、英語も上手らしい。添乗員におんぶにだっこの日本人は、満足な船内交流もできず、見劣りしたらしい
84歳のお婆さんが1人で乗っており、添乗員がその人につきっきりになり、他の乗客から文句が出ていたそうだ。欧米からの客は、そのような場合は、家族が付き添うのが常識だ。ピースボートでも家族で高齢の身内を世話している例もあるが、高齢者が単身で乗り込み、何かあれば、ピースボートやジャパングレースが面倒見る例が多い。ピースボートは、さながら、独居老人のお世話をする「洋上、世界一周付き擁護施設」と言えなくもない。ひるがえって考えれば、この線で利益が期待できるうまいビジネスかもしれない

  もうひとつのグループは豪華客船に乗って南極海をクルーズするコースだが、追加料金85万円を払ったにもかかわらず、添乗員の対応がお粗末であり、8人中6人の乗客が体調を崩したそうだ(食事時間の調整などの不備によるもの、船の設備には不満なし)

山中さんのブログはこちら

伴侶の膵臓がん闘病記です、国民病と言われるがんの実録ですので、多くの人にとって参考になると思います
 
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