商品UF-920を振り返ってみれば、昭和56年からの電電公社(現NTT)のトラックV入札制度の結果につながる、
それがすべてのスタートであった。
電電公社の新GV機仕様を応札するには新規開発をしなければならず、当然当社の新商品を仕様変更してまで対応しよう
なんて、本気で考えてくれる人は関係者以外誰もいなかった(そのような雰囲気)
電電営業部から強い要請があり、電電公社向け担当技術部門が中心となって対応策を練った。
GU機・GV機の2機種を抱えての開発で、限られた少人数メンバーで難題を承知で開発に着手した。
当時の担当は機構 松本哲男(当時調査役)、デザインと実装・鈴木征三(当時課長)、電気回路・山田晃嗣(当時課長)が中心となった。
当社の特徴付けをするために、各社のカタログと商品資料を全部調査した。結果はO社機が感熱ファックスでは最有力機となった。
したがってそれに焦点を絞り開発の企画を立てた。もちろん技術検討したうえで手製の一次モデルを作った。
入札時期の製品は一年近く先のことである。それまでに技術進歩もあるだろうし、市場要望もさらに厳しく変化することだってある、
一年先を見た企画検討を再度しなければならない。より小型で軽量、今までにとらわれないデザイン、簡単操作(標準化ということもあったが)
というコンセプトで、今われわれにできることに的を絞ろうとした。
そうして目標、すなわち勝つための強い思いを入れた“仮想敵国”なるものを想定し、すべての項目について、一年後にはどうだ!
というぐあいに掘り下げていった。途中で(故)折井さんが電電公社より当社においでになり力強い協力者ができた。
第1回目の自信作のモデルも作り上げた。開発も進捗しやがて入札日を迎えたが残念な結果となりあきらめざるを得なかった。
さてそれからである・・・・。
しかしここまでつめてきた自信作(自己満足だけど)を何とか纏めて商品にしたい、という思いがどうしても消えなかった。
(故)折井さんと相談した結果、自社ブランド商品に提言しようということになった。
(故)渡辺元社長(当時 事業部長)に商品企画会議の議題に載せてもらうよう、何度も進言した結果やっと重い腰を上げ商品
企画会議にかけてくれた。その時期はUF-1000の商品開発が社運をかけて研究所を中心に進行中だった。
企画会議の冒頭に某氏にいわれた。「トンネルの中に入ったからといって、出なければということはない。そんな特徴もないものに
無駄に開発費をかける必要はないではないか。」と厳しいパンチを浴びせられた。結果的に本流商品でないものはNGということで
保留となった。
その後は社内の主要な人にPRを続けた。一部の人からは「そんな開発は早く中止して解散しろ」。とまでいわれた。が中には
商品化を期待する人もいた。暫くしてから、再度の商品企画会議の議題とするまでにこぎつけた。社長から(モデルを見ながら)
ずんぐりしているなー、でも面白いかもしれない”。といっていただいた。それで前進した。
ネーミングも残っているのは900番しかなかった。「9(キュウー)はよくないなー」なんて意見もあったが最終的に
920(20秒機)で纏まった。
実際には、自社商品化となると電電公社向けとは違った難しさが山とあった。機能には何の特徴もない商品かもしれないが、
コンパクト感とその取り扱い易さ、そのための操作性にはかなり強みがあると思い込み、原価も何とかクリアーしていたので、
それで何とか商品をリカバリーすればと念じていた。かなり開発も進み、最終商品化へのフェーズに入った頃だった、営業担当が
うるさいお客様(?)といって開発中のこのファックスを見てもらおうと連れてきた。“電源の温度が少し気になるが、
使い易そうだし、フイーリングがいいから売れるよ!。早く商品にしてくださいよ“。と評価してく れた。
正直なところうれしかったね・・・・・・。
それからも多くの人の指摘や意見を一つ一つつぶしていった。開発メンバーも工場試作(湘南工場)から商品化ラインへ進む過程では、
毎日のソフトバグつぶしやメカ、安全性問題やらの対策で毎日徹夜の連続だった。みんな目黒勤務者だったので深夜になると帰りの
交通機関も無くなり、ホテルに帰る時間も惜しんで工場内で問題解決に取り組んでいた。もちろん工場内は開発関係者しかいない。
眠くなると数少ない応接室のソフアーに横になった。まだそれは良い方で、工場の床にダンボールを敷いて寝ることも常とうとなった。
今考えると無茶苦茶だったなあ、みんな良く頑張ってくれたね・・・・・。
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