「ファクス投資情報システム」の導入

山一証券
『ファクス投資情報システム』
2004年10月
曽布川 治
 
 全国ネットの規模で、「ファクス投資情報システム」が導入されたのは、昭和47年、 当時の山一證券(株)が最初でありました。 「生き馬の目を抜く」といわれているほど、あらゆる情報を駆使して株の売買をする証券業界でも、 ファクスの利用は殆んどなく、共同通信、時事通信からのニュース情報が株の売買材料として使われていました。
 
 私が山一證券(株)をはじめて訪問したのが昭和40年当初頃からで、当時は東京〜大阪間の専用電話料金節約のため、 二重搬送端局装置(遠距離電話を周波数で区切って2回線として使用する装置)を売り込みに行っていました。  昭和46年頃、電話技術主任の山一證券S氏から「株式部で全国規模のシステムを検討している」とのお話をいただき、 株式部にアプローチしたのが「ファクス投資情報システム」の始まりでした。
 
 株式部のK課長を中心に、場電設備とファクス網のシステムが検討されていました。 早速、システムプロポーザル提出を約束してきましたが、株の売買の仕組み、業務の流れなど、 まったく分からなかったため、K課長からいろいろ教えてもらいました。また、本を読んで勉強もしました。  新富常務(当時、銀行ファクス本部長)、渡辺技術部長、技術の齋藤(寛)さんには何回も同行いただき、 最終的には共同開発としてシステムをつくりあげました。株式売買の場電設備と全国96支店への一斉、個別、 系列通信のできるファクスシステムの同時進行でしたから大変な事業でした。 特に苦労したのは、プロポーザル提出の電話回線網を調べるため、電電公社(当時)には何回も足を運び、 効率のよい電話回線網をつくることでした。
 
 また、他社の活動も活発で、契約ができるまでは夜も眠れぬ思いでした。 最終的には、山一證券 Y常務(後に社長)から1億余円の金額を正式発注のお言葉をいただき、同時に、新聞発表の相談もいただいた時は 大変な喜びでありました。
 

投資情報システム 勧業角丸証券 本店株式部
 
山一證券様よりの感謝状
 
 自慢できることは、当時の電送サービスの大活躍でした。宮園さんを中心に、場電の設置や、 ファクスを全国一斉に開通させるため徹夜の 作業が続きましたが、完璧に成功し、 お客様の満足を得たことは大変大きな自信になりました。
 
 そして、この作業がそれからの営業活動に大きく貢献いたしました。 野村證券、新日本証券、勧業角丸証券、 三洋証券、ナショナル証券などに次々に導入されました。飯田さん、青山さんをはじめ優秀な人々が集中的に活動した 結果が大きな成果になりました。他社も必死で、競争は熾烈でした。松下幸之助相談役の親書作戦は大変な成功を奏しました。 大型件名の受注活動には大きく役立たせていただきました。 業界最大手の野村證券(株)はN社、T社の三つ巴で、 山一證券(株)の実績はありましたが予断が許されません。緊張の連続でした。 松下幸之助相談役の親書を、 新富常務に同行し、野村證券(株)の社長にお手渡しもしました 。
 
 昭和47年4月、野村證券I総務課長から、システム説明に来いとの名指しでの指示をいただき、 T常務(後に社長)以下関係者の並みいる前で説明しましたが、10%の値引きを言い渡されました。 1億数千万円のシステムですから大きな額でしたが、山一證券(株)で完成したシステム技術と、 他社にない日本一のサービス網の完備、そして、迅速な対応ができることが大きな説得力となり、 3%の値引きで同意を得たことは忘れられない想い出でありました。 日本の経済界をリードしていた 当時の証券業界トップ、山一證券Y常務、野村證券T専務、三洋証券T副社長(いづれも当時)はじめ、 多くの方々面談をいただき、勉強させていただいたことは、大変な財産になりました。 また、営業の役得を存分に堪能いたしました。 あれから30有余年、山一證券(株)は既になく、 証券各社も国際化の大きなうねりの中で、合併、吸収、統合と大きく様変わりされました。 コンピュータ化され、場立ちもなくなり、自宅のパソコンで株の売買ができるようになりました。 まさに隔世の感があります。
 
 当時を想い起しながら、30有余年前にタイムスリップする思いで書き留めましたが、
まさに今日の様変わりにびっくりしているところです。  
 
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