ウズベキスタン紀行
2024年12月
植木 圭二
10月、中央アジアのウズベキスタンに旅行会社のツアーで行ってきました。
ウズベキスタンはシルクロードの時代に栄えた都市遺跡が多く残っており、“文化交差路”として有名です。
それは遺跡だけでなく、音楽や料理などにも通じるものがありました。
第一章 ヒヴァ(Xiva)
█ カルタ・ミナレット
ウズベキスタン中西部、ヒヴァという街に世界遺産「ヒヴァのイチャン・カラ」があります。
ここは城壁都市で、城壁の内部には古い街がそのまま残っています。
城内に入ると、色鮮やかなタイルで造られた未完成のカルタ・ミナレットです。
カルタとは現地語で短いという意味でミナレットは尖塔なので、見てのとおりの表現です。
当時のヒヴァの王は隣の都市ブハラに対抗意識を燃やして、ブハラのミナレットよりも大きいものを建てようとしました。
ところが建築中に王が亡くなり工事は打ち切られました。もしも完成していたら王の名のミナレットになっていたに違いありません。
何事も途中で止めると、ろくなことにならないようです。
【ヒヴァのイチャン・カラの城壁内部とカルタ・ミナレット】
█ 城壁都市の中
城壁都市ですからミナレットの他に、ハーレム、メドレセ(神学校)、モスク、宮殿、牢獄、造幣所、奴隷市場などがあります。それらは全て見物できます。
街の中は意外に日本人観光客が多く、店先では日本語も通じます。さすがに日本円は使えませんが、
現地通貨スム以外にUSドルも使えます。とてもフレンドリーな対応をしてくれます。
ハーレムとは、日本の江戸時代で言えば“大奥”のことです。イスラム教は一夫多妻なので宮殿には王の部屋と4人の王妃の部屋があって、
それ以外に多数の妾(めかけ)が住む大部屋もあります。
【ハーレムの中の王の間】
ジュマ・モスクは半地下にあります。木製の柱はギリシャのパルテノン神殿と同じエンタシス様式で中央の部分が太くなっています。
エンタシスはシルクロードによって法隆寺にも伝わっという説もあります。
【ジュマ・モスク】
█ 45mのミナレット
牢獄には処刑シーンの絵が数枚飾ってあります。その中にミナレットの上から囚人を投げるシーンがあります。
街で一番高い「イスラム・ホジャのミナレット」は高さ45mもあり、囚人が投げられたのは、おそらくこのミナレットでしょう。
入場料10万スム(日本円で約1160円)を支払い、登ります。
ミナレット内部の階段は118段もあり、狭くて急で、そのためハシゴのように両手足を使って登ります。踊り場がないので降りる人とのすれ違いも大変で、
もしも誰かが足を踏み外して落ちれば、下にいる全員が地上まで落ちるので、死を覚悟しないといけない程です。
なんとか登り終えて外を覗くと、青いドームの建物、カルタ・ミナレットも見えます。残念ながら何となく霞んでいます。
砂漠地帯なのでおそらく砂が舞っているのでしょう。
【イスラム・ホジャのミナレットの上からヒヴァの街を臨む】
このミナレットの上から囚人を投げるには、どうやって登らせるかという大きな疑問が残ります。
階段で暴れられると困るので、ミナレットの外壁からロープを吊るして引っ張り上げたのかもしれません。
█ 遺跡のライトアップ
ウズベキスタンは観光に力をいれており、夜の街はとても綺麗にライトアップされて、多くの人々が街に出てきます。
昼間はあまりにも暑いから、夜の活動が多くなるようです。街は昼間とは全く違う顔をして、私たちを迎えてくれます。
【ヒヴァの夜 左のミナレットが昼間登ったイスラム・ホジャのミナレット】
第二章 ブハラ(Bukhara)
█ 砂漠の国
次の目的地「ブハラ」まで約400kmのバス移動になります。街をぬけて郊外に出ると、現地ガイドが「橋を渡ると砂漠になります。
橋は一方通行で鉄道と共有なので線路も敷かれている珍しい造りをしています」と教えてくれます。
鉄道と道路が共存する橋などというものは日本では見ることができません。
橋を渡ると間もなく砂漠になり、この砂漠がウズベキスタンの国土の6割を占めているということです。
【線路が敷かれている道路兼鉄道橋】
延々と砂漠が続きます。
シルクロードとは、そのような道があったのではなく、砂漠地帯に点在するオアシス都市の総称みたいなもので、
旅人たちはオアシス都市で休養と補給をして旅を続けたのです。
そもそもシルクロードという言葉も当時からあったものではなく、19世紀にドイツの学者が用いた造語だそうです。
█ イスマーイール廟
オアシス都市ブハラの「イスマーイール廟」は中央アジア最古のイスラム建築の廟で王族が眠っています。13世紀のモンゴル襲来の時には、
廟は砂の中に埋もれていたために破壊を免れました。そして20世紀になって発掘されたということです。
それにしてもこの大きな建物が砂に埋もれていたとは、日本では信じられないことです。
【イスマーイール廟の外観】
壁はレンガのみが使用され、レンガの凹凸を使用して複雑な陰影を表現しています。
廟は外観と内装の両方の美しさによって宝石箱にも例えられるそうです。
【イスマーイール廟の内部】
█ 民族舞踊を見ながら夕食
夕食会場はメドレセ(神学校)の庭を使ったレストランで、民族舞踊のショーを見ながらの夕食になります。
民族衣装を着た若い女性ダンサーが踊り、その後ろで男たちが楽器を演奏し、歌を歌っています。
ダンサーの踊りも衣装もどこかで見たことがあるというもので、バリ島などの東南アジアのようにも、中国のようにも、トルコのようにも、東ヨーロッパのようにも見えます。
音楽もまた、西洋的にも東洋的にも聞こえるから不思議で、弦楽器に打楽器、何となくどこかで見たもの、どこかで聴いた音がするから不思議です。
さすがにここはシルクロードのオアシス都市、東西の文化が交差しています。
【メドレセ(神学校)の庭を使ったレストラン】
█ 世界遺産ブハラ
夕食を終えてブハラの歴史地区を訪れます。ここは1世紀頃からシルクロードの要衝として栄えはじめ、
9世紀頃に最盛期を迎え、13世紀にモンゴル帝国に破壊され、その後復興しほぼ今の姿になりました。
歴史的建造物群がライトアップされており、目にもまばゆい状態です。ヒヴァで観た夜景の比ではありません。
カラーンモスクのカラーン・ミナレットが実に美しく、
ヒヴァの王が対抗心を燃やしたというのがこのミナレットらしいのですが、その王の気持ちもここに立つと分からないでもありません。
【右:カラーンモスクとカラーン・ミナレット 左:メドレセ】
さらにミナレットの隣に立つと、ミルアラブメドレセが目の前に広がり。
2つの青いドームを背後にしてこの世のものと思えない美しさを放っています。
【夜のミルアラブメドレセ】
翌日、旧市街を再度散策します。昨夜のライトアップされた景色は衝撃的でしたが、
昼間のメドレセもなかなか捨てがたく、その比較のために昨夜と同じ構図で写真を撮りました。
【昼間のミルアラブメドレセ】
█ 昼食のラグマン
昼食は「焼きラグマン」という“中央アジア版焼きうどん”という触れ込みの料理が出てきました。
見た目は確かに焼きうどんですが、
日本の焼きうどんというよりも味付けはパスタに近いようです。
それよりもラグマンという名前はラーメンの語源というので、その方が私にとっては衝撃的でした。
パスタ、うどん、ラーメン、これも東西文化の融合かもしれません。
【焼きラグマン】
█ 高速鉄道
ブハラ駅から高速鉄道に乗り、次の目的地サマルカンドに向かいます。
高速鉄道は日本の新幹線が世界で初めて営業運転を開始し、フランスのTGVやスペインのAVEなどが続きました。
私はどれも乗ったことがありますが、新幹線は綺麗、TGVはお洒落、そしてAVEは朴訥(ぼくとつ)としていて頑丈そうだったことを思い出します。
ウズベキスタンの高速鉄道はスペインの支援で出来たのでAVEに似て、堅牢な感じがします。
【ウズベキスタンの高速鉄道】
車窓は街並みから砂漠に変わり、しばらく砂漠が続きます。そして荒れ地から畑になって、
再び街に変わります。電車に乗ってから約1時間半、サマルカンドに入ってきたようです。
第三章 サマルカンド(Samarqand)
サマルカンドはブハラと首都タシケントの中間地点にあり、人口は56万人でウズベキスタン第2の都市です。
古都なので日本で例えれば京都のような都市のようです。
街に出ると、車も多く、喧騒の世界といったところです。それでもインドや東南アジアとはだいぶ異なり、落ち着きがあります。
【サマルカンドの街中】
サマルカンドは大きな街ですが、古き良き街でもあります。街には昔ながらのバザール(市場)も残っています。
バザールには観光客が多く訪れますが、青果、食料品、衣類も売っているので地元の方も利用しています。
【ジョブバザール】
█ 世界遺産サマルカンド
"青の都″と呼ばれるサマルカンドは世界遺産に登録されています。その登録名称は「文化交差路サマルカンド」と訳されています。
一般的に世界遺産の登録名称は「○○の歴史地区」や、「古都○○」などという表現が使われますが、
文化交差路という都市が果たした役割を用いた名称は珍しいようです。
それほどサマルカンドは文化交流に貢献した街だと強調したかったのでしょう。
サマルカンドの歴史は古く、紀元前から栄え、アレクサンダー大王もその美しさを絶賛しました。
8世紀にイスラム教化、13世紀にモンゴルに破壊され、
14世紀にティムール朝によって再興されました。その時に青いタイルを大量に使ったのでサマルカンドブルーと呼ばれる青の都になりました。
サマルカンドは中央アジア一帯を支配したティムール朝の首都だったから、
その支配力の強大さと華やかさを誇示すべく、数多くの建築物を残しました。
█ レギスタン広場
サマルカンド観光の拠点は何といっても街の中心にある「レギスタン広場」でしょう。ツアー客の誰もが感動して「オオー!」と声を発しています。
今まで見てきたモスクや廟とはスケールが桁違いで、素晴らしいという一言に尽きます。
広場にはメドレセ(神学校)が3棟あって、"コの字型″に並んでいます。中央が広い広場になっており、
これがレギスタン広場になります。
【向かって左側のウルグ・ベク・メドレセ】
【向かって右側のシェル・ドル・メドレセ】
【中央のティリャー・コリーモスク・メドレセ】
広場は夜に来るとライトアップされ、これがまたとても素晴らしくなります。ヒヴァやブハラの比ではありません。
【レギスタン広場の夜景】
時間になると音楽とともに照明が赤や青や黄色に変わる「光と音のショー」が催されます。
このショーはテレビなどでも紹介されますが、再現は無理でしょう。
その理由は広場の周辺に設置されている大音量の低音スピーカーから発せられる振動が、
空気だけでなく地面を伝わってくるので、この臨場感は現地に来ないと味わえないからです。
【レギスタン広場の夜の光と音のショー】
█ クーリアミール廟
クーリアミール廟は、青いドームを中心に外観の青に対して、内部は金がふんだんに使われています。
その青と金の調和が見事な廟になっています。
【クーリアミール廟の黄金の内装】
█ 料理が交差する
昼食にウズベキスタン料理「プロフ」が出てきました。ガイドはピラフの元になった炊き込みご飯だと紹介してくれました。
調べてみると、フランス料理「ピラフ」のルーツはトルコ料理「ピラウ」で、ウズベキスタンのプロフもその仲間のようです。
確かにピラウとプロフを合わせるとピラフになります。
味付けについては、チャーハン(炒飯)と言った方がいいかもしれません。
チャーハンは炊き込みご飯ではないのですが、塩コショウの素朴な味は如何にもチャーハンです。
ここでも文化交差路を感じることになります。
夕食にウズベキスタン料理「マントゥ」が出てきました。確かトルコ料理にも同様なものがあったと思います。しかしどう見ても小籠包のようで、
中華料理と言った方がいいでしょう。ただしここはイスラム圏なので豚肉でなく牛肉を使っていますから味はだいぶ違います。
そもそもマントゥは饅頭からきているような気がします。饅頭は日本では“まんじゅう”ですが、中国では“まんとう”で、肉まんに似ています。
饅頭が西へ伝わったのか、マントゥが東に伝わったか、これが文化交差路たるこの土地の面白いところでしょう。
【マントゥ】
世界三大料理とは、中華料理、トルコ料理、フランス料理を言いますが、
ここウズベキスタンではそれらがまさに交差していることを実感します。ただ私が感じたのは、
交差しただけで融合することはあっても進化はしていないようです。
█ シャーヒズィンダ廟群
「シャーヒズィンダ廟群」にやって来ました。この廟群は11世紀頃から19世紀までの間に作られて、
現在では20以上の廟の集合体になっています。
廟群のメインストリートは、たくさんの人たちでごった返しています。両側にはいくつもの廟があり、
中に入ると、墓石だけポツンとあるものや綺麗な装飾が施されているものもあります。
【シャーヒズィンダ廟群のメインストリート】
第四章 タシケント(Toshkent)
█ 首都タシケント
ウズベキスタンの首都タシケントは人口約300万人の大都会です。ソ連時代はモスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、
ウクライナのキエフ(現在はウクライナ語のキーウ) に続く第4の都市でした。そのためソ連時代の古い建物も多く残っています。
しかしソ連崩壊から30年以上経っているので新しい街に進化もしていいます。
道路にある広告はデジタルサイネージがほとんどで、道幅もかなり広く、街を歩く人々も何となくお洒落に感じられます。
ただし自動車については、ウズベキスタンの他の地域同様にアメリカのGM(ゼネラルモーターズ)製のシボレーばかりが走っています。
その理由は、ウズベキスタン政府が国内にGMと合弁会社を設立して、
国内生産をしているので国産車扱いになるために高い関税がかからないから価格が安く、多く販売されています。
スーパーマーケットに入りましたが、日本と同じようですが、特に肉や乳製品は非常に豊富です。
その代わり魚類は極めて少ないのは内陸の国の宿命でしょう。
【タシケントのスーパーマーケット 生鮮食料品売り場】
█ 地下鉄
日本のテレビ番組でタシケントの地下鉄が紹介されました。
タシケントの地下鉄は中央アジアで最初の地下鉄で、
ソ連時代の1977年に開業しました。世界の地下鉄の中でもかなり凝った装飾がなされていることで有名です。
かつて地下鉄構内は撮影禁止だったそうですが、2018年から撮影が可能になったといいます。
ウクライナのキーウの地下鉄もそうですが、西欧や米国との戦争を意識して作ったので、
機密事項が多かったようです。そのために入口も分からないようになっており、戦車も入れそうな広く大きな階段があります。
【地下鉄の入口 デジタルサイネージもある】
乗車券は窓口で買いますが、1区間2000スム(約23円)だからとんでもなく安く感じられますが、
国民の年収は日本の1/10程度だということで、それほどでもないようです。
地下鉄のホームは私が思っていたよりも深くありません。これでは核シェルターにはならないかもしれません。
構内の装飾は綺麗で芸術的です。広告が全くないのも興味深いところです。
【地下鉄の駅のホーム】
地下鉄に乗ると、すぐに若者が席を譲ってくれました。
ウズベキスタンの若者たちは年配者に席を譲るのは当たり前だと聞いていたので驚かなかったのですが、
電車内でスマホばかり見ている日本の若者にも見てほしいと誰かが言っていました。
█ アミール・ティムール広場
街中に「アミール・ティムール広場」という大きな公園があります。緑豊かな公園ですが、この公園も歴史があります。
19世紀にロシア帝国がこの地域を一方的に攻撃して支配下に置きました。それは今のウクライナを連想してしまいます。
その時のロシアの総督の像がこの公園に置かれて、提督の名をとってコンスタンティノフ広場と呼ばれていました。
ロシア革命後のソ連時代は革命広場と呼ばれてレーニン像やマルクス像が置かれ、
今はティムール帝国の英雄ティムールの像が置かれています。
このような変遷は、日本ではまず考えられないことです。
【アミール・ティムール広場のティムールの像】